檔案 吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、日本の男性シンガーソングライター。本名同じ。舊蕓名は平仮名の「よしだたくろう」。楽曲提供者としては「入江剣」の名を用いることもある。鹿児島県大口市(現(xiàn)・伊佐市)生まれ、広島県広島市南區(qū)西霞町育ち。鹿児島市立谷山小學(xué)校~広島市立皆実小學(xué)?!珟趰u市立翠町中學(xué)校~広島皆実高?!珟趰u商科大學(xué)(現(xiàn)・広島修道大學(xué))卒業(yè)。夫人は四角佳子~淺田美代子~森下愛子。おひつじ座。血液型A型。身長(zhǎng)176cm。竹田企畫、インペリアルレコード所屬。 日本のシンガーソングライターの草分け的存在である。マイナーな存在だったフォークとロックを一気に日本の音楽シーンのメインストリームに引き上げ、また大規(guī)模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、コンサートツアー、プロデューサー、レコード會(huì)社設(shè)立など、さまざまな新しい道を開拓したパイオニアとして日本ポピュラーミュージック史における最重要人物の一人である。 小簡(jiǎn)介 泉谷しげるはエレック・レコードの後輩で、エレックを抜けた拓郎の代わりに売り出されたスターだった。世の中が泉谷の歌を下手だと言った時(shí)も「うまい、うまい」と褒めてくれたという。拓郎の家に遊びに行くと自分のレコードばかり聞かせ、イメージとは裏腹に神経質(zhì)で、奧さんは「ツアーの荷造りも自分でやって1週間前から遠(yuǎn)足に行く子供みたいに楽しそう」という。エレックが倒産しフォーライフを設(shè)立した時(shí)も、拓郎は泉谷を引き入れ、フォーライフが內(nèi)部抗?fàn)帳蚴激幛迫趣oめる時(shí)も懸命に引き留めた。「反亂を起こして出て行こうとするのに愛情がデカい。今でもオレにとって拓郎は獨(dú)得の色気を持った "かなわない男" "目の上のタンコブ"。 拓郎の強(qiáng)引な発想に振り回されちゃう自分が楽しいんだから不思議だ」と表現(xiàn)している。 その泉谷と昔、飲み屋で大喧嘩をしたことがあるが、拓郎は泉谷に勝ってしまったというエピソードがある。この喧嘩の仲裁に入ったのが森山良子。森山は毆り合っている二人に「こら拓郎!泉谷!いい加減にせぃ!」と叫んだという。森山はまだ無(wú)名時(shí)代の拓郎を自身のラジオ番組(キョーリン・フォーク・カプセル、ラジオ関東?)に度々呼ぶなど拓郎を可愛がったという。森山は1971年から1972年にかけて結(jié)婚、出産(森山奈歩)のために休養(yǎng)した。そのブランクのために1973年はパッとせず。この時(shí)代になると拓郎らシンガーソングライターが臺(tái)頭してきて當(dāng)時(shí)、"歌謡曲歌手"というイメージがついていた森山はアルバムが売れない狀況になっていた。1974年の賛美歌アルバムの完成と「ある日の午後」のヒットで盛り返した森山に1975年、「襟裳岬」を大ヒットさせた拓郎が前記の恩を返す形で「歌ってよ夕陽(yáng)の歌を」を提供。曲もヒットしたことで森山のイメージは再び"フォークの女王"に戻った。この後発売されたアルバム『やすらぎ』には五輪真弓、巖沢幸矢、長(zhǎng)谷川きよしら人気シンガーが曲を提供することにもなってアルバムとして久しぶりに大ヒットした。森山はこの年「歌ってよ夕陽(yáng)の歌を」で第26回NHK紅白歌合戦に出場(chǎng)した。 かまやつひろしに提供した「我が良き友よ」で歌われる“下駄を鳴らして奴が來る。腰に手ぬぐいぶら下げて”は拓郎のことを歌ったものと言われた。當(dāng)時(shí)の流行の洋服店に入っても店員に「今日は下駄じゃないんですね」と言われ、この頃は道行く人にもケンカを吹っかけると思われていた。地方で靜かに食事をとったり、お酒を飲んだりしていても店員に構(gòu)えられ「今日はおとなしいですね」と言われ「何を期待されてるんだろう」と思ったと言う。かまやつも「50年間、この業(yè)界にいて警察官とケンカをしたのは橫山やすしと拓郎だけ。ケンカが強(qiáng)いので拓郎を尊敬する」と述べている。 そのかまやつについて、拓郎は「東京へ來てから女、アルコールなど軟派系の遊びは全部かまやつさん。今日の僕があるのは、かまやつさんのおかげ。身體はガタガタですけど」と言う。かまやつは當(dāng)時(shí)流行の最先端をいっていた業(yè)界人らと付き合い、拓郎をそういう人達(dá)が集う場(chǎng)所に連れて行った。作詞家・安井かずみの自宅は「川口アパート(プール付き)」(川口松太郎が造った高級(jí)マンション)と呼ばれ加賀まりこ、野際陽(yáng)子、コシノジュンコや當(dāng)時(shí)のトップモデル・シャロン宮田、ナンシー村井ら多くの業(yè)界人が集った。そこは大使館のような世界で、カルチャー・ショックを受けた。誰(shuí)にも紹介してもらえず、「絶対に東京に負(fù)けてはならない」との思いを更に強(qiáng)くした。同業(yè)者だった安井には「あなたたちが來てから日本はすごくつまらなくなった」「あなたの詩(shī)って男のエゴばかり、女のことなんか何も分かってない」と言われ大ゲンカとなり泣かれて、拓郎にいじめられた、と言い觸らされた。しかし安井の言葉はとても響き、すごい大事な人を失った感じがある、と述べている。拓郎は1986年、加藤和彥のプロデュースで全曲を安井作詞による『サマルカンド・ブルー』というアルバムを出している。 武田鉄矢は拓郎に憧れて上京しエレック・レコードに入った。ところが入った途端、拓郎はCBSソニーに移籍。また拓郎が表紙を飾った「新譜ジャーナル」に載るのも憧れだったが「新譜ジャーナル」もなくなった。つまずきから東京暮らしが始まったという。つき合いが始まったのはだいぶ後、武田が映畫を撮り始めてから。1982年からの映畫『刑事物語(yǔ)』の主題歌「唇をかみしめて」を拓郎が手掛けたり1985年、映畫『幕末青春グラフィティRonin坂本竜馬』に高杉晉作役で出演した。これは坂本竜馬を演じた武田が、ずっと背中を追いかけてきた拓郎に一回、こっち側(cè)を向いて勝負(fù)して欲しい、と相手役として遮二無(wú)二に拓郎を説得したもの。また武田は拓郎を高杉晉作役で起用した理由について、拓郎の聲はアジテーターの聲であり、たった一聲で千とか萬(wàn)の若者が後について行くような聲。それは高杉晉作もそんな聲だったんじゃないかと思うという持論で、俳優(yōu)では出せないと拓郎にお願(yuàn)いしたと説明している。 フォーライフの社長(zhǎng)をしていた頃、夜中に武田鉄矢から「飲みませんか」と電話がかかってきたのを受けて、出かけて行った時(shí)のエピソード。夜中の酒の誘いは斷る事も多いが、武田からの誘いの場(chǎng)合は「きれいどころ」が待っており、武田のトークで十分盛り上がっているところで、「はい、今お話していた吉田さん、はいはい拍手!」「よっ、フォーライフの社長(zhǎng)!」などとよいしょされ、美人局のようだったという。 1970年代半ばに、よくペニーレインなどで拓郎と飲んでいたガロの大野真澄は、拓郎から「一人でやれ、一人でやれ」といつも言われてたため、ガロの解散、所屬レコード會(huì)社の倒産もあって1976年、フォーライフ入りした。この頃大野は、新曲より水原弘や服部メロディなど、昭和の歌謡曲のカバー・アルバムを作りたかった。ところが當(dāng)時(shí)は全編カバー集を作っても売り方がわからない時(shí)代、スタッフから「そんなの作ってどうするの?」と言われ実現(xiàn)しなかった。ところが翌年1977年、拓郎が有名なカバー・アルバム『ぷらいべいと』を出したため大野は「別に僕のアイデアを使ったとは思わないけどね」と述べている。 更多>>